総本山において、毎年五月一日に奉修せられる大行会(だいぎょうえ)は、大石寺の開基檀那である南条七郎次郎時光殿、法名・大行尊霊の祥月命日忌の法要です。
日蓮大聖人と南条家
時光殿の父・兵衛七郎殿は、もともと伊豆国南条(静岡県伊豆の国市南条)に住み、のちに富士上野(富士宮市上条付近)に移ったので、「南条殿」とも「上野殿」とも呼ばれています。
兵衛七郎殿は、鎌倉幕府に使えていたことから、当時、鎌倉で弘教されていた日蓮大聖人にお会いして入信し、真摯な信仰に励んでいました。しかし文永二(1265)年三月八日、時光殿が七歳のときに病気で亡くなりました。大聖人は、兵衛七郎殿の死を深く悼み、富士上野まで足を運ばれ、墓参をされています。
それから九年後の文永十一年五月、佐渡配流を赦免された大聖人が身延山(山梨県南巨摩(こま)郡身延町)に入られたことを伝え聞いた南条家では、様々なご供養の品を取りそろえ、時光殿が身延の大聖人へお届けしました。
大聖人は返礼のお手紙に、
「をんかたみに御みを若くしてとどめをかれるか。すがたのたがわせ給わぬに、御心さえにられける事いうばかりなし」(南条後家尼御前御返事・御書741頁)
【通訳】形見として、故上野殿の姿を若くしたような子息を遣わし置かれたのでしょうか、時光殿は姿も違わないばかりか、心まで似ていることは言いようもありません。
と認められ、時光殿が父・兵衛七朗殿によく似ている上に、信心をも立派に受け継いでいることを大変喜ばれました。
日興上人と南条家
翌文永十二年の正月、大聖人は兵衛七朗殿の墓参のために、日興上人を南条家に遣わされ、これを機に日興上人と南条家との深い縁が結ばれました。
このころ、日興上人は富士山麓一帯において折伏を展開され、時光殿も日興上人に従い、懸命に大聖人の教えを弘めました。そして、親戚の松野殿、新田殿、石川殿等にも正しい信仰を勧め、これらの人々を入信に導いたのです。
また、日興上人の弘通は富士下方(しもかた=静岡県富士宮市)にも及び、天台宗滝泉寺の僧侶であった日秀・日弁・日禅の各師や、近在の人々が多く改宗・帰依し、大聖人の弟子檀那となりました。
熱原の法難
このような法華の僧や信徒の増加を妬(ねた)み恨(うら)んだ滝泉寺院主代・行智をはじめ、他宗の人々は、権力者の力を借りて熱原(富士市厚原付近)の信徒を迫害し、熱原の法難が惹起(じゃっき)しました。
この法難は、建治元(1275)年頃から始まり、弘安二(1279)年に激しさを増し、同年九月には行智などの陰謀によって、熱原の農民信徒二十人が無実の罪で捕縛され、鎌倉に連行されるという事態に至りました。農民信徒は、北条家の重臣・平左衛門尉頼綱の拷問を受け、改宗を迫られました。しかし、熱原の信徒は脅迫に屈せず題目を唱え続けたため、怒り狂った頼綱により、中心者の神四朗(しんしろう)、弥五朗(やごろう)、弥六郎が斬罪に処せられたのです。
この法難に際して、時光殿は大聖人・日興上人の指導を受けて、熱原の信徒を団結させ、身に危険の迫った人々をかくまうなど、命をかけて謗法者の弾圧と戦いました。
南条時光殿の信心
大聖人は、時光殿の働きを称賛され、「上野賢人」との号を贈られました。当時、時光殿がいかに大聖人の御教え通りに実践され、しかもその活躍が類い希なものであったかが解ります。
法難が落ち着きを見せた後も、他宗の人々は幕府権力者と結託して、南条家に重い税金や工事を課すなどの迫害を加えました。
南条家にとって、これらの課税や工事は大きな痛手でいたが、時光殿をはじめ一家は苦難に屈せず、常に大聖人への御供養を心掛けられました。
大聖人は、
「わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかかるべき衣なし、かかる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもいやらせ給いて、ぜに一貫をくらせた給へる」(上野殿御返事・御書1529)
【通訳】自分は乗るべき馬もなく、妻や子に着せる衣服もない。そのような身であるけれども、法華経の行者である日蓮が山中で雪に責められ、食物も乏しいことであろうと思いやられて、銭一貫文を送っていただいた。
と仰せられ時光殿の信心を賞されています。
弘安四(1281)年の夏ごろ、二十四歳の時光殿は病に倒れ、翌年二月、にわかに病状が悪化しました。その知らせを聞かれた大聖人は、ご自分も病床にあられましたが、早速、時光殿快復を祈られ、弟子の日朗に書状を代筆させて御秘符を下付されました。さらに三日後には、病体を押して自ら筆を執られ「法華証明抄」(御書1590頁)を送られました。
時光殿は、大聖人のご祈念と日興上人の激励、そして強盛(ごうじょう)な信心で培った強靭な生命力によって大病を克服し、その後、五十年もの寿命を延ばして、七十四歳の長寿を全うすることができたのです。
時光殿を始め、南条家が大聖人から賜った数多くのお手紙は、現在に伝えられ、本宗信徒の信行の指針となっています。
弘安五年十月十三日 武蔵国池上(東京都大田区)における大聖人の御入滅に際し、時光殿は葬儀に馳せ参じ、散華の役を勤めました。また、日興上人は大聖人の御霊骨を奉じて身延にお帰りになる途中、南条家に一宿されています。
七年後の正応二(1289)年、時光殿は、地頭・波木井実長の謗法によって身延を離山された日興上人を、自領の富士上野の地にお迎えしました。さらに、日興上人が大聖人御遺命の本門戒壇建立の地と定められた大石ヶ原を寄進して、総本山大石寺の基礎を築いたのです。
翌正応三年、大坊が完成して大石寺の基礎が定まった後も、時光殿は日興上人、第三祖日目上人以下、門下の外護に尽力しました。
晩年の時光殿
時光殿は晩年、入道して大行(だいぎょう)と名乗り、十余人の子供に恵まれて、幸せな日々を送りました。また、一族からは第三祖日目上人、第四祖日道上人を始め、多くの僧侶を輩出し、総本山および宗門を守りました。
元弘二(正慶元・1332)年五月一日、時光殿は生涯の師と仰いだ日興上人に先立ち、七十四歳の一生を安らかに終えました。
時光殿の墓碑は、大石寺の南南西約二キロの高土(たかんど)の地(富士宮市下条)に、雄大な富士山と総本山を望むように建っています。
このように時光殿は、大聖人、日興上人に師弟相対の信心をもってお仕えするとともに、富士地方の信徒の大将として折伏を行じ、広宣流布の根本道場である大石寺を建立寄進するなど、偉大な功績を残しています。
これを称(たた)えて、総本山では毎年、時光殿の祥月命日である五月一日に、御法主上人の大導師のもと大行会を奉修しているのです。